1921年
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初めて現地調査は爆発の13年後に行われました。
天文学者レオニード・クーリックを中心とするソ連科学アカデミー調査団によるものである。
クーリックは聞き取り調査を行い、大爆発のあった日、多くの人が大火球の落下を目撃し、大音響が聞こえたことを確認しています。
また、残骸の落下地点をポドカーメンナヤ・ ツングースカ川上流と推定しています。
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1924年
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地質学者オブルチェフは、エベンキ人の話として、ワナワラからそう離れていないところで、森林がことごとく倒れていることを作成した地図で報告した。
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1925年
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イルクーツク気象台長ウオズネンスキーは、1908年6月30日の不思議な地震は大きな隕石の落下に原因があるとの説を発表した。
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1927年
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スースロフもエベンキ人から聞き取り調査をして、ポドカーメンナヤ・ツングースカ川に注ぐチャムバ川の流域に火球が落下し、森林火災が発生してタイガの樹木を倒したことを報告した。
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1927年
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この年2月にクーリックと助手のギューリッヒはツングースカ隕石を捜す探検に出発した。4月初めて大規模な倒木地帯を見つける。一旦、ワナワラに引き返し、5月に再度調査を開始して、放射状の倒木群の中心地を発見した。
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1928年
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4月、クーリックと助手のスイチンは、第2回目のツングースカ隕石探検に出発した。ワナワラで映画技師が同行していた。5人の労務者とともに小屋や倉庫を作る。ワナワラからの道(クーリックの道)が作られる。クレータ状の場所(スースロフ漏斗)の磁気測定などを行うが、鉄隕石の落下した徴候は見つからなかった。
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1929年
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2月、クーリックは第3回目のツングースカ隕石探査に出発した。助手として天文学者クリノフが参加する。「スースロフの漏斗」を排水し徹底的に捜したが、依然として隕石の破片、痕跡は見つからなかった。
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1938年
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倒木群の中心地域、約250km2の航空写真撮影が行われる。
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1939年
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クーリック、第4回目のツングースカ隕石探検を行った。ユージノエ沼(南沼)の調査を行い、底に顕著な凸凹があることが判明する。クーリックは落下した天体は隕石であると考えていたが、それまでの4回の探検ではクレーターや隕石の破片など隕石落下説を裏付ける証拠は見つからず、原因についての特別な成果はあがらなかった。
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1940年
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クーリック、第5回目のツングースカ隕石探査を行い、ユージノエ沼を再び調査する計画を立てたが中止した。
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1942年
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長年、ツングースカ大爆発の謎に挑んできたクーリックだったが、前年に志願兵として戦いドイツの捕虜となり、チフスに感染して死亡した。
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1946年
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ロシアのSF作家カザンツェフが、短編小説「爆発」を発表する。「爆発は地球に墜落した異星人の宇宙船に積まれた核爆弾によるものである」という内容の小説である。
これに刺激されて、トムスク大学の若手研究者や学生を中心として、自主総合探査体(KSE)なるものが結成される。KSEは、その後、まじめな科学的調査の中心となり、数次にわたる詳細な現地調査などを行うが、残留放射能の測定など検出されず、カザンツェフの説は否定された。
しかし、カザンツェフの小説は、その後のトンデモ仮説の先駆けとなり、多くの摩訶不思議な説を生み出す原点になった。
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1953年
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地球化学者のフロレンスキーは、ポドカーメンナヤ・ツングースカ川流域の調査の折に異変地域に入り、倒木やクーリックの探検小屋が残っていることを確認した。
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1958年
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フロレンスキーを隊長とする探検隊がツングースカ異変地域の調査を行う。天文学者ゾートキンや地質学者ヴロンスキーも参加する。土壌中の球粒物質を採集した。
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1959年
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ヴロンスキーの自主探検隊が調査を行う。プレハノフを隊長としたトムスク大学の関係者を中心とするKSE(自主総合探検隊)も第1回調査KSE-1を行う。また核爆発説の地球物理学者ゾトロフも現地入りする。
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1960年
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ヴロンスキーを隊長とする科学アカデミー隕石委員会の探検隊、KSE-2、コシエリョフを隊長とするモスクワの探検隊、ゾトロフの探検隊が調査を行う。
1960年代に入ると、本格的な探検調査が行われるようになった。倒木の倒れている向きなどの綿密な地図が作られ、その物体の入射角、速度、そしてグラウンドゼロ地点(爆心地)や爆発力が判明してきた。
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1961年
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フロレンスキーを隊長とする隕石委員会の探検隊が調査した。KSE-3もフロレンスキーの下で調査にあたった。
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1962年以降
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KSEがほぼ毎年現地調査を行うようになった。
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1990年
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第1回国際ツングースカ調査がKSE-32と合同で行われる。ソ連のほかにフランス、ユーゴスラビア、ブルガリア、スウェーデン参加した。
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1991年
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第2回国際ツングースカ調査がKSE-33と合同で行われる。外国からはボローニャ大学を中心とするイタリア隊が参加した。
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1992年
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第3回国際ツングースカ調査がKSE-34と合同で行われる。アメリカ、イギリス、ドイツ、日本から参加した。
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1994年
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安部亮介、篠田皎、第5回国際ツングースカ調査に参加するため集合地クラスノヤルスクに行くが、国際調査は中止となった。しかし、日本人は、ガイドとともに現地入りし調査した。
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1999年
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イタリア・ボローニャ大学を中心とする調査隊が爆心地の北約8kmのチェコ湖を中心に調査を行う。
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2002年
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イタリア・ボローニャ大学とロシアのトムスク州立大学、トムスク工科大学の合同調査隊がチェコ湖を中心に調査を行う。
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