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ツングースカ大爆発
 

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〔ツングースカ大爆発〕

 1908年6月のこと、ヨーロッパやロシアで天変地異を思わせる奇妙な現象が多数目撃されました。

 一説では、過去にそんなことが一度も無かった地域で、オーロラのような発光現象が観測されたり、白夜のような夜が何日も続いたといいます。

 そして運命の日、6月30日にそれは起こりました。

 ロシア奥地にあるツングースカ川上流で奇妙な大爆発が起こり、その閃光とキノコ雲は数百キロも離れた地域からも観測されました。

 ヨーロッパの広い範囲で地震が起こり、地鳴りが続きました。この爆発こそ、世にいう「ツングースカ大爆発」とか「ツングースカ現象」です。

 ツングースカという地域はロシアでもシベリア奥地にあり、当時はとても辺境の地だったために、この現象の調査団が初めて現地に派遣されたのは、それから10年も後のことでした。ようやくこの地に辿り着いた調査団は、奇妙な光景を目の当たりにすることになります。






ツングースカの様相

〔ツングースカの樹木の様相〕

 異常現象の発生から10年もの歳月が過ぎ去ったというのに、調査団たちがツングースカで目にしたものはまさに異様な様相でした。

 上空で爆発のあった地点のグラウンド・ゼロ(爆心地)には、数知れない樹木が直立したまま立ち枯れし、爆心地から半径20キロメートル以上の範囲では、無数の樹木が放射状になぎ倒されていたのです。

 1960年代に行われた探検で、樹木の倒れている向きなどの綿密な調査から地図が作成され、爆発物の入射角や速度、爆発力などが詳細に評価されました。(2枚の写真は1927年 クーリック探検隊によるもの)
ツングースカ大爆発  
ツングースカ大爆発

〔ツングースカ・バタフライ〕

 爆発とその衝撃波などの影響で破壊され倒れた樹木の姿を鳥瞰すると、爆発の跡は、ちょうど飛翔する蝶のような歪んだ形に見える。

 そのため爆発跡地は「ツングースカ・バタフライ」と呼ばれるようになりました。(K P Florenskiy : Flattening of timber on the basis of 1961 data.)

 樹木がなぎ倒された範囲はおよそ6000平方キロメートルあり、東京都とほぼ同じくらいの広さでした。このような爆発が東京上空で起きたとしたら、東京は全滅必至だったと考えられます。

ツングースカ・バタフライ

〔何があったのか〕

 樹木の状況や広範囲の被害状況から、この爆発の原因は天空から巨大な何かが飛来し、ツングースカの上空で大爆発して飛散したものとされました。

 巨大な火の玉を目撃したという証言が多数あることからも、恐らくそれは隕石や彗星、小惑星の類だったという説には説得力があります。

 ある研究によれば、その物体は地上7000mほどの上空で爆発したとされ、その威力たるや広島型原爆数千個分にもあたるという。

 爆心地に巨大なクレーターを残さなかったことから推察すれば、その物体は上空で大爆発して消滅し、その閃光と衝撃波だけが地上を襲ったことになる。とすれば、恐らくそれは氷を主体とした彗星のようなものであったに違いない。

 このような大事件が発生すると、常のように色とりどりの噂話が持ち上がるものだが、今回も例外ではなかった。最初に出てきた話は、ロシアによる大量殺戮兵器(核爆弾?)の実験だったというものである。しかし、アインシュタインが特殊相対性原理を発表した1905年からたった3年後にそのようなものができることなどあろう筈もない。

 その他にも、宇宙から飛来したUFOが爆発したとか、未来からやってきたタイムマシンの着陸失敗だとか、いやいや、あれは奢れる人類を戒めるための神の怒りの一撃だったとか、賑やかな話ではある。

 その後も多くの観測隊が現地を調査したが、未だに全貌は解明されていない。この爆発より先行して観測された、発光現象は何だったのか、ヨーロッパを揺るがした地震のような振動は何だったのか、謎は尽きない。


ツングースカ探検隊

〔探検隊の派遣〕

 爆発のあった1908年当時、ロシアでは共産党革命の直前であり、かつ日露戦争での敗戦後間もなくであったため、社会情勢の混乱もあって、現地調査が行われたのは、事件から10年以上経ってからのことでした。

 その後、現在まで何度となく探検隊が派遣され探検されてきたが、未だにツングースカ大爆発の謎の全貌解明には至っていない。これからもまだまだ探検は続くかも知れません。いつの日か、日本の探検隊が現地入りして、最新技術で挑んでくれることを期待したいものです。

 ここで、過去の探検隊の歴史を示します。

ツングースカ探検隊の記録
1921年  初めて現地調査は爆発の13年後に行われました。

 天文学者レオニード・クーリックを中心とするソ連科学アカデミー調査団によるものである。

 クーリックは聞き取り調査を行い、大爆発のあった日、多くの人が大火球の落下を目撃し、大音響が聞こえたことを確認しています。

 また、残骸の落下地点をポドカーメンナヤ・ ツングースカ川上流と推定しています。

1924年  地質学者オブルチェフは、エベンキ人の話として、ワナワラからそう離れていないところで、森林がことごとく倒れていることを作成した地図で報告した。

1925年  イルクーツク気象台長ウオズネンスキーは、1908年6月30日の不思議な地震は大きな隕石の落下に原因があるとの説を発表した。

1927年  スースロフもエベンキ人から聞き取り調査をして、ポドカーメンナヤ・ツングースカ川に注ぐチャムバ川の流域に火球が落下し、森林火災が発生してタイガの樹木を倒したことを報告した。

1927年  この年2月にクーリックと助手のギューリッヒはツングースカ隕石を捜す探検に出発した。4月初めて大規模な倒木地帯を見つける。一旦、ワナワラに引き返し、5月に再度調査を開始して、放射状の倒木群の中心地を発見した。

1928年  4月、クーリックと助手のスイチンは、第2回目のツングースカ隕石探検に出発した。ワナワラで映画技師が同行していた。5人の労務者とともに小屋や倉庫を作る。ワナワラからの道(クーリックの道)が作られる。クレータ状の場所(スースロフ漏斗)の磁気測定などを行うが、鉄隕石の落下した徴候は見つからなかった。

1929年  2月、クーリックは第3回目のツングースカ隕石探査に出発した。助手として天文学者クリノフが参加する。「スースロフの漏斗」を排水し徹底的に捜したが、依然として隕石の破片、痕跡は見つからなかった。

1938年  倒木群の中心地域、約250km2の航空写真撮影が行われる。

1939年  クーリック、第4回目のツングースカ隕石探検を行った。ユージノエ沼(南沼)の調査を行い、底に顕著な凸凹があることが判明する。クーリックは落下した天体は隕石であると考えていたが、それまでの4回の探検ではクレーターや隕石の破片など隕石落下説を裏付ける証拠は見つからず、原因についての特別な成果はあがらなかった。

1940年  クーリック、第5回目のツングースカ隕石探査を行い、ユージノエ沼を再び調査する計画を立てたが中止した。

1942年  長年、ツングースカ大爆発の謎に挑んできたクーリックだったが、前年に志願兵として戦いドイツの捕虜となり、チフスに感染して死亡した。

1946年  ロシアのSF作家カザンツェフが、短編小説「爆発」を発表する。「爆発は地球に墜落した異星人の宇宙船に積まれた核爆弾によるものである」という内容の小説である。

 これに刺激されて、トムスク大学の若手研究者や学生を中心として、自主総合探査体(KSE)なるものが結成される。KSEは、その後、まじめな科学的調査の中心となり、数次にわたる詳細な現地調査などを行うが、残留放射能の測定など検出されず、カザンツェフの説は否定された。

 しかし、カザンツェフの小説は、その後のトンデモ仮説の先駆けとなり、多くの摩訶不思議な説を生み出す原点になった。

1953年  地球化学者のフロレンスキーは、ポドカーメンナヤ・ツングースカ川流域の調査の折に異変地域に入り、倒木やクーリックの探検小屋が残っていることを確認した。

1958年  フロレンスキーを隊長とする探検隊がツングースカ異変地域の調査を行う。天文学者ゾートキンや地質学者ヴロンスキーも参加する。土壌中の球粒物質を採集した。

1959年  ヴロンスキーの自主探検隊が調査を行う。プレハノフを隊長としたトムスク大学の関係者を中心とするKSE(自主総合探検隊)も第1回調査KSE-1を行う。また核爆発説の地球物理学者ゾトロフも現地入りする。

1960年  ヴロンスキーを隊長とする科学アカデミー隕石委員会の探検隊、KSE-2、コシエリョフを隊長とするモスクワの探検隊、ゾトロフの探検隊が調査を行う。

 1960年代に入ると、本格的な探検調査が行われるようになった。倒木の倒れている向きなどの綿密な地図が作られ、その物体の入射角、速度、そしてグラウンドゼロ地点(爆心地)や爆発力が判明してきた。

1961年  フロレンスキーを隊長とする隕石委員会の探検隊が調査した。KSE-3もフロレンスキーの下で調査にあたった。

1962年以降  KSEがほぼ毎年現地調査を行うようになった。

1990年  第1回国際ツングースカ調査がKSE-32と合同で行われる。ソ連のほかにフランス、ユーゴスラビア、ブルガリア、スウェーデン参加した。

1991年  第2回国際ツングースカ調査がKSE-33と合同で行われる。外国からはボローニャ大学を中心とするイタリア隊が参加した。

1992年  第3回国際ツングースカ調査がKSE-34と合同で行われる。アメリカ、イギリス、ドイツ、日本から参加した。

1994年  安部亮介、篠田皎、第5回国際ツングースカ調査に参加するため集合地クラスノヤルスクに行くが、国際調査は中止となった。しかし、日本人は、ガイドとともに現地入りし調査した。

1999年  イタリア・ボローニャ大学を中心とする調査隊が爆心地の北約8kmのチェコ湖を中心に調査を行う。

2002年  イタリア・ボローニャ大学とロシアのトムスク州立大学、トムスク工科大学の合同調査隊がチェコ湖を中心に調査を行う。



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