あい |
〔愛多ければ憎しみ至る〕
(あいおおければにくしみいたる)
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大切に愛されていると、他の者から憎まれるようになること。
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〔愛及屋烏〕
(あいきゅうおくう)
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ある人を愛するあまり、その人にまつわる全てのもの、その人の家の屋根に止まっている烏(からす)さえも愛おしくなるということ。溺愛、盲愛のたとえ。
「屋烏」は屋根にとまっている烏のこと。
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〔愛想尽かしは金から起きる〕
(あいそづかしはかねからおきる)
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嫌気がさしたり離れて行ってしまう原因は、お金が絡んでいる。
愛情が消えうせて嫌になってしまうこと。女性が男性に対して冷たくなり、別れ話を持ち出すときは、あまりお金がもらえなくなったときに起こりやすい。
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〔愛想も小想も尽き果てる〕
(あいそもこそもつきはてる)
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愛情が消えうせて嫌になってしまうこと。
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あう |
〔会うは別れの始め〕
(あうはわかれのはじめ)
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会うは別れの始めとは、出会った人とは、いつか必ず別れるときが来てしまうものだということ。
この世で出会った人とは、それがどんなに大事な人であっても、いつか必ず別れが訪れる。
人には逢う喜びがあるかわりに、必ず別れの悲しみや愛の儚さ、人生の悲しさという世の無常が伴うのである。
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あお |
〔青菜に塩〕
(あおなにしお)
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ものごとがうまくいかず、元気をなくして、しょんぼりしている様子、すっかりしょげている様子をいう。
とりたての青菜はたっぷり水分を含んで元気だ太、塩を振りかけると水分が抜けてしまってしおれてしまうことから、人が打ちひしがれ、うな垂れている状態をいう。
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〔青は藍より出でて藍よりも青し〕
(あおはあいよりいでてあいよりあおし)
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青色の染料は草の藍(あい)から作られるが、それはもとの藍草よりももっと鮮やかな青となる。
『荀子』の言葉で、「学は以って已むべからず。青は藍より出でて藍より青し。氷は水これを為して水よりも寒し」による。
弟子が師匠の識見や技術を越えもっと優れていることのたとえ。学問や努力により持って生まれた資質を越えることができるということ。
類義語に、「出藍(しゅつらん)の誉れ」や「氷は水より出いでて水よりも寒し」がある。
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あき |
〔秋の扇〕
(あきのおうぎ)
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秋の扇とは、愛が終ったために男に捨てられる女のたとえ。
それは、まるで盛夏のときに重宝に使われた扇が、秋となり暑さがなくなれば用済みとなるとの意味合いです。
その昔、前漢の成帝の妃・班?妤(はんしょうよ)が、成帝の寵愛を失い、捨てられた我が身を嘆いて詠んだ詩の故事に由来する。
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〔秋の日は釣瓶落とし〕
(あきのひはつるべおとし)
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秋の日が急に沈んでしまうことを、井戸に落とす釣瓶(つるべ)にたとえていう言葉。
「釣瓶」とは、昔の深い井戸の水を汲むために綱や竹竿の先端につけられた水桶のことで、この桶がものすごい速さで井戸の底に滑り落ちるように、秋の日は素早く沈んでしまうことをいう。
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あく |
〔悪事千里を走る〕
(あくじせんりをはしる)
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悪い行いや悪い評判は、たちまちの間に世間に知れ渡るということ。
よい行いというものは、なかなか人には伝わらないものだが、悪い行いや悪い評判やスキャンダルは、あっというまに世間に知れ渡ってしまうものである。
宋の孫光憲による『北夢瑣言(ほくむさげん)』「好事門を出でず、悪事千里を行く」とあるのに基づく。
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あさ |
〔麻の中の蓬〕
(あさのなかのよもぎ)
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自然に感化されて善人になることのたとえ。良い環境によって善が生ずることのたとえ。
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あた |
〔頭の上の蝿も追えぬ〕
(あたまのうえのはえもおえぬ)
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とかく人の世話を焼きたがる者に対して、人の事よりもまず自分自身のことをちゃんとやれということ。
自分の頭の上にたかる蠅さえ、まともに追い払うことも出来ないくせに、他人の頭の上の蠅を追い払おうとするような、おせっかいな者への軽蔑の言葉。
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あつ |
〔悪貨は良貨を駆逐する〕
(あっかはりょうかをくちくする)
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悪い物が蔓延ることで良い物が淘汰されてしまうこと、悪がはびこると善が滅び去るというたとえ。
十六世紀、エドワード六世・エリザベス一世のもとでの財務顧問担当をした貿易商グレシャムが唱えた経済法則のひとつで、エリザベス一世に提出した意見書に登場する言葉である。
「Bad money drives out good.」
悪人や悪い物が蔓延る現代社会では、とかく善人や良い物が駆逐されてしまうという意味である。
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〔羹に懲りて膾を吹く〕
(あつものにこりてなますをふく)
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ひとつの失敗に懲りてしまい、度を越して用心深くなることのたとえ。
『楚辞』に由来する言葉で、熱い吸い物を飲んで火傷したのに懲りて、冷たいなますまでも吹いて冷ますという意味。前の失敗にこりてしまい、必要以上に用心深くなることのたとえ。
過度に用心深い人に対して、あざけりの気持ちをこめて使う。
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あと |
〔後足で砂を掛ける〕
(あとあしですなをかける)
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恩義のある人を裏切るばかりか、去りぎわに恩をあだで返すような行為をして、さらに迷惑をかけることのたとえ。
犬や馬が駆け出すとき、後足で土や砂をを蹴散らして去ってゆく様からでた言葉のようです。
「後ろ足で砂をかける」「後足で砂を蹴る」「後足で砂を浴びせる」「後足で砂をぶっかける」などともいう。
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〔後の祭り〕
(あとのまつり)
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良い時機を外し、何の役にも立たないこと。もはや、手遅れであること、効を失うことのたとえ。
語源には諸説あるが、有力なのが、京都八坂神社の祇園祭に由来するものである。祇園祭には、豪華な山車が沢山繰り出される「前の祭り」と、還車の行事を「あとの祭り」とがある。
あとの祭りは、山鉾も出ず賑やかさもなく、見物に行っても面白くないことから、物事が時機を外して手遅れなことをいう。
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あは |
〔痘痕も靨〕
(あばたもえくぼ)
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痘痕も靨とは、人を好きになってしまえば、その人の欠点さえも長所に見えるようになってしまうというたとえ。
痘痕(あばた)は、天然痘が治ったあとの傷跡のことで、普通には醜いものをいう。しかし、惚れてしまえば、それがえくぼのように可愛らしくすら感じられるようになるというたとえ。
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あふ |
〔危ない橋を渡る〕
(あぶないはしをわたる)
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仕事などで、目的を達成するために、危ないと分かっていても、無理をして、危険な手段をあえて使うことのたとえ。
いまにも、崩れ落ちそうな危ない橋と分かっていながら、その危ない橋を渡ってでも目的をやり遂げようとすることから生まれた言葉で、特に法に触れるようなすれすれのことを行うときに使われる。
「危険な橋を渡る」ともいう。また、逆の意味のことわざに、「石橋を叩いて渡る」というのがある。
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〔虻蜂取らず〕
(あぶはちとらず)
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欲張って二つのものを同時に手に入れようとして、結局はどちらも得られず失敗すること、欲を出しすぎると失敗することのたとえ。
あれもこれも取ろうと欲張ると結局何も手に入らないという意味。欲を出しすぎることや、曖昧な方針のまま何かをやろうとすることを戒める言葉。
「虻蜂取らず鷹の餌食」「虻も取らず蜂に刺される」ともいう。
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あま |
〔涓滴石を穿つ〕
(あまだれいしをうがつ )
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雨垂れ石を穿つとは、どんなに小さな力でも、根気強く続けるならいつか成果が得られるものだというたとえ。
元来の意味は、軒下からしたたり落ちる雨垂れでも、長い年月の間には固い石に穴を穿つことから。
「雨垂れ石窪む」ともいう。
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あみ |
〔網呑舟の魚を漏らす〕
(あみどんしゅうのうおをもらす)
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法網がゆるやかだったり、大まかであるために大罪人を逃してしまうことのたとえ。
『史記』酷吏伝から、網の目が粗すぎるために、舟を丸のみするほどの大魚までも捕り逃がしてしまうことから転じた言葉。
『呑舟の魚(どんしゅうのうお)』とは、舟を丸呑みにするような大魚のことで、『大悪人』や『大罪人』のことを表している。
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あめ |
〔雨降って地固まる〕
(あめふってちかたまる)
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揉め事やトラブルが発生しても、それが解決したあとは、かえって良い結果や良い状態になることのたとえ。
人は雨を嫌がるものだが、雨が降ったときはぬかるんでいた土地でも、雨がやんでしばらくすれば、かえって土地が固く締まり、よい状態になる意味から。
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あわ |
〔鮑の片思い〕
(あわびのかたおもい)
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磯の鮑の片思いとは、あわびの貝殻が片方にしかないことに似せて、自分の片思いを洒落ていうことば。
鮑(あわび)の殻が二枚貝の片方だけのように見えるところから、一方からだけの、相手に通じない恋をいう。
『万葉集』にこんな古い句がある。
「伊勢のあまの朝な夕なにかづくとふ、鮑の貝の片思いにして」
(私の恋はいつも、伊勢のあまさんが朝と夕方、海にもぐっては取っている、あわびの貝に似て、片思いばかりです。)
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あん |
〔鞍上人なく鞍下馬なし〕
(あんじょうひとなくあんかうまなし)
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乗り手が巧みに馬を乗り回し、乗り手と馬が一体となって疾走するさま。
乗り手と馬の呼吸が合い、鞍の上の人と鞍の下の馬が渾然一体となっている意から、乗馬に限らず巧みな操作ぶりをたたえる場合に使う。
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〔安寧秩序〕
(あんねいちつじょ)
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世の中が穏やかに治まり、安全と秩序がきちんと保たれていること。
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