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〔い〕で始まる諺



 〔い〕で始まる〔諺〕には、多くのものがあります。これらの中で、次に示す諺などは真実を微妙に言い当てていて面白く、頻繁に耳にします。

 「石の上にも三年」
 「急がばまわれ」
 「一難去ってまた一難」
 「一石二鳥」


あ行か行さ行た行な行
は行ま行や行ら行わ行
 
あいうえお
 
〔珠玉のことわざ〕
犬も歩けば棒に当たる
(いぬもあるけばぼうにあたる)

 犬も歩けば棒に当たるとは、何かをやろうとすれば何かと思わぬ災難に遭うという戒め。また、出歩けば思わぬ幸運に出会うこともあるとのたとえ。

 元来は、犬がうろつき回ると、とかく人に棒で叩かれたりするかも知らないという意味合いである。「棒に当たる」とは、文字通り棒で殴られるということ。

 〔江戸いろはがるた〕の第一句に登場する。「犬も歩けば棒に会う」とも書かれる。

 

諺 〔諺〕とその内容。
いし 〔石が流れて木の葉が沈む〕
 (いしがながれてこのはがしずむ )

 石が流れて木の葉が沈むとは、物事が通常の道理とは逆になっていることのたとえ。

 本来なら、重い石は沈み、軽い木の葉が流れるのに、それが逆になっていて、物事が真の道理とは逆になっていることのたとえで、理不尽である世の中を嘆く言葉。

 「石が浮かんで木の葉が沈む」ともいう。

〔石に漱ぎ流れに枕す〕
 (いしにくちすすぎながれにまくらす )

 石に漱ぎ流れに枕すとは、負け惜しみが強く、無理やりこじつけて、自分の説を通そうとすることをいう。

 本来なら、俗世間を離れ人里離れたところで自由に暮らすということを意味する言葉、「石に枕し流れに漱ぐ」を、晋の孫楚が間違えて、「石に漱ぎ流れに枕す」といったのを友人からからかわれた。

 これに対し、負けん気の孫楚は、石に漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕するのは俗事を聞いて汚れた耳を洗い清めるためだと、こじつけたという故事に基づく。

〔石の上にも三年〕
 (いしのうえにもさんねん)

 どんなに辛くても、辛抱して続ければ、いつかは成し遂げられるということ。

 冷たい石の上でも三年も座りつづけていれば暖まってくることから転じて、がまん強く辛抱すれば必ず成功するということ。何事にも忍耐強さが大切だというたとえ。

 「三年」というのは、ちょうど三年の意味ではなく、多くの月日のことをいう。

 「石の上にも三年居れば暖まる」ともいう。

〔意志薄弱〕
 (いしはくじゃく)

 意志が弱く、忍耐、決行などをなしえぬこと、がまん強さに欠けること。

〔石橋を叩いて渡る〕
 (いしばしをたたいてわたる)

 壊れようもない十分に堅固に見える石橋でも、なお安全を確かめてから渡ることから、用心の上にも用心深く物事を行うことのたとえ。

 「石橋を叩いて渡れ」「石の橋も叩いて渡れ」ともいう。

 慎重すぎる人や臆病すぎる人に対して皮肉をこめて使う場合もある。

 用心に用心を重ねたのに、結局は実行しない「石橋を叩いても渡らない」

 用心深くなりすぎた為に失敗する、「石橋を叩いて壊す」

〔医者の不養生〕
 (いしゃのぶようじょう)

 人に養生を勧める医者が、自分では健康に注意しないこと。正しいとわかっていながら自分では実行しないことのたとえ。

 医者は患者には養生の大切さを説くものだが、自分自身では案外と不摂生をするなど、口では立派なことを言いながら実行が伴わないことの戒めである。

 風来山人 (平賀源内 ) の『風流志道軒伝』に「医者の不養生、坊主の不信心」とある。不信心な坊主は名僧にはほど遠いが、不養生の医者が必ずしも藪医者というものでもない。医者に限らず、専門家と呼ばれる者は、かえって逆のことをしがちなものだ。

いす 〔交喙の嘴〕
 (いすかのはし)

 「交喙の嘴」とは、イスカのくちばしが上下食い違っていることから、物事が食い違って思うようにならないことのたとえ。

 イスカは雀よりちょっと大きい、あとり科の鳥で、褐色の両くちばしが湾曲交差した小鳥である。

 「交喙の食い違い」 ともいう。

いそ 〔急がば回れ〕
 (いそがばまわれ)

 急いで物事をなし遂げようとするなら、危険な近道を行くよりも、安全確実な道を行くほうがかえって得策だというたとえ。

 急ぐからといって慣れない近道や危険な道を選べば、道に迷ったりして、かえって遅くなる。多少、手間や時間がかかる回り道となっても、本道を行くほうが、結局は早く目的を果たせるということ。

 連歌師の宗長が詠んだ「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」に由来する。

 「急げば回る」「急ぐ道は回れ」ともいう。

いた 〔鼬の最後っ屁〕
 (いたちのさいごっぺ)

 鼬(いたち)の最後っ屁とは、窮地に追い込まれた時などに使う非常手段に訴えるたとえ。

 イタチは敵に追い詰められると、悪臭を放ち敵がひるんだすきに逃げることから、せっぱつまって最後の非常手段を用いることをいう。

 日常的には、何かの問題で追い詰められたり、組織を破門にされそうになった人が、組織を去るときに恨み言などを思いっきり吐き出すときなどに使われる。

〔鼬の道切り〕
 (いたちのみちきり)

 鼬の道切りとは、交際や音信がぱったりと途切れることのたとえ。

 イタチは、同じ道を二度と通らないとされ、イタチが人の前を横切ると、交際や便りが途絶えてしまったり、不吉なことが起こる前兆とされた俗言から。

 「鼬の道」「鼬が道を切る」ともいう。

〔痛む上に塩を塗る〕
 (いたむうえにしおをぬる)

 痛い傷口の上に塩を塗ると、いっそう痛みが激しくなることから、悪いことが起きているところへさらに悪いことが重なるたとえ。

いち 〔一言以ってこれを蔽う〕
 (いちげんもってこれをおおう)

 一言以ってこれを蔽うとは、ひとことで全体の意味を言い表すことわざ。

〔一事が万事〕
 (いちじがばんじ)

 わずかひとつのことを見れば、他のすべてのことを推し量ることができるということ。

 ひとつのことをそのようにやるなら、他のことすべてについても大体同じことがいえるということ。他人のよくない点について使われることが多い。

 人の行動は、些細な事柄の調子から、他の全ての場合に現れると見られやすい。あまり良くない一面があるなら、他の場合も悪いはずだと推測されてします。

〔一字千金〕
 (いちじせんきん)

 一字千金とは、一字の値が千金にもあたるほど立派な文章、または文字であること。

〔一難去ってまた一難〕
 (いちなんさってまたいちなん)

 一つの災難を逃れてほっとする間もなく、また次の災難が起きることのたとえ。

 人生は皮肉なもので、ひとつの災難をようやく解決すると、新たに別の災難が降りかかるものです。次々と災難に見舞われて困惑してしまうこともあります。

 「一難去ればまた一難」「一難去れば一難来る」ともいう。

〔一葉落ちて天下の秋を知る〕
 (いちようおちててんかのあきをしる)

 一葉落ちて天下の秋を知るとは、わずかな前兆を見て、後に起きることを予知することのたとえ。

いつ 〔一挙両得〕
 (いっきょりょうとく)

 一つの行動によって、二つの利益を得ること。一つの事をすることにで二つの利益を収めること。一度にふたつの目的がかなうこと。また、わずかな労力で多くの利益を得ることのたとえ。

 「一挙」は一つの動作や行動。「両得」は二つの利益を得ること。

 同義語に、「一石二鳥(いっせきにちょう)」がある。

〔一攫千金〕
 (いっかくせんきん)

 一攫千金とは、一度にたやすく巨額の利益を得ることのたとえ。

 一攫とは、一つかみという意味で、千金とは、千両、大金のことを指し、たったのひとつかみから大金を得るという意味の諺。簡単な仕事で易々と大金を手に入れることにいう。

 最近では、「一獲千金」と書くことも多い。

〔一刻千金〕
 (いっこくせんしゅう)

 時間の貴重であることのたとえで、わずかな時間が千金にも相当するとの意味。

 貴重な時間やよい季節などの楽しいひとときは、たちまち過ぎ去ってしまうのを惜しむ言葉、時間を無駄に過ごすのを戒める言葉です。人生すら一瞬のうちに過ぎ去ってしまうのだから、一刻といえども大切にしなくては。

 漢詩の一節「春宵一刻値千金」、春の夜のひとときが千金にも値するほどすばらしいとの表現に由来する。

 「千金一刻」ともいう。

〔一刻千秋〕
 (いっこくせんしゅう)

 ほんの僅かな時間が、千度もの秋が回って訪れるかのごとく、非常に長く感じられるさま。待ちこがれる気持ちのたとえ。

 「一刻」はわずかな時間のこと。「千秋」は千年のこと、長い年月の意味です。

 「一日三秋」とか「一日千秋」などとも言う。

〔一生懸命〕
 (いっしょうけんめい)

 命をかけて物事に当たるさま。本気で物事に打ち込むさま。

〔一将功成りて万骨枯る〕
 (いっしょうこうなりてばんこつかる)

 一将功成りて万骨枯るとは、功績が目立つ人の影には、それを支えた無数の人の努力や犠牲があるということ。

〔一寸先は闇〕
 (いっすんさきはやみ)

 一寸先は闇とは、これから先のことなど全く予測できないことのたとえ。

〔一寸の光陰軽んずべからず〕
 (いっすんのこういんかろんずべからず)

 一寸の光陰軽んずべからずとは、わずかな時間も無駄にしてはならないという戒めの言葉。

〔一寸の虫にも五分の魂〕
 (いっすんのむしにもごぶのたましい)

 一寸の虫にも五分の魂とは、小さく弱い者にも、それに相応しい意地もあれば根性もあるのだから、虫けらといえども侮ってはならないというたとえ。

〔一斑を見て全豹を卜す〕
 (いっぱんをみてぜんびょうをぼくす)

 一斑を見て全豹を卜すとは、物事の一部を見てその全体を推し量ることのたとえ。

〔鷸蚌の争い〕
 (いっぽうのあらそい)

 鷸蚌の争いとは、二者が争っている間に、第三者に利益を横取りされ共倒れになることのたとえ。

 争っているシギとハマグリを一度に漁師がつかまえたという「戦国策」燕策の故事に由来することわざ。

〔乙夜の覧〕
 (いつやのらん)

 乙夜の覧とは、書物を読むことの大切さをいう言葉。

 「乙夜」とは、午後十時くらいの時間を指し、覧とは、書物を読むことを指す。

 その昔、天子はとても多忙で、夜遅くになってようやく読書する時間ができたということから生まれたことわざで、「乙覧」と略して使うこともある。

いぬ 〔犬と猿〕
 (いぬとさる)

 犬と猿とは、非常に仲が悪いことのたとえ。仲の悪い間柄のたとえ。

 犬と猿は、非常に仲が悪いとされていることから生まれたことわざ。

 通常、「犬猿の仲」という言い方をされる。

〔犬の遠吠え〕
 (いぬのとおぼえ)

 犬の遠吠えとは、臆病者が陰で威張ったり、陰口を言ったりすることのたとえ。

 犬の遠吠えとは、犬が遠くで「ウォーン!…」などと声を長く引いて吠えること。

 弱い犬は、自分より強そうな犬に対しては、遠く離れたところから尻込みしながら吠えたてることに由来します。

 勝ち目のない相手に対して、陰で悪口をいったり、非難したり、罵ったりするときに使われる。

〔犬も歩けば棒に当たる〕
 (いぬもあるけばぼうにあたる)

 犬も歩けば棒に当たるとは、何かをやろうとすれば何かと思わぬ災難に遭うという戒め。また、出歩けば思わぬ幸運に出会うこともあるとのたとえ。

 元来は、犬がうろつき回ると、とかく人に棒で叩かれたりするかも知らないという意味合いである。「棒に当たる」とは、文字通り棒で殴られるということ。

 〔江戸いろはがるた〕の第一句に登場する。「犬も歩けば棒に会う」とも書かれる。

いの 〔命あっての物種〕
 (いのちあってのものだね)

 何事も命があって初めてできるもの、死んでは何にもならないとのたとえ。命にかかわるような、危険なことはできるだけ避けたほうがよいというたとえ。

 「物種」とは、物事の根源のこと。

 命を失くしては元も子もないのだから、命の危険にかかわることは避けるべきだということ。何があっても、命だけは大切にすべきだという戒め。

 「命が物種」「命こそ物種」ともいう。

〔井の中の蛙大海を知らず〕
 (いのなかのかわずたいかいをしらず)

 井の中の蛙大海を知らずとは、知識や見聞が狭いこと、識見がないことのたとえ。

 また、自分の世界にとらわれて広い世界があることに気づかず、得意になっている人のことをいう。

 小さな井戸の中に住む蛙は、そこが世界の全てであり他の大きな海があることを知らないことから、物の見方や考えが狭いことを批判する言葉。略して単に「井の中の蛙」ということもある。

いは 〔衣鉢を伝う〕
 (いはつをつたう)

 衣鉢を伝うとは、学問や芸術などの分野で、師匠が弟子に、その道の奥義を伝えることをいう。

 仏教で奥義を伝える証に、師である僧が弟子に袈裟と鉢を与えたことから生まれた言葉。「衣」は袈裟を指し、「鉢」は食器を意味する。

いふ 〔威風堂堂〕
 (いふうどうどう)

 態度や雰囲気に威勢があり堂々としているさま。

いへ 〔韋編三度絶つ〕
 (いへんみたびたつ)

 韋編三度絶つとは、繰り返し熱心に書を読むことのたとえ。

 「史記」孔子世家の、孔子が易を熟読し、韋編が三度も切れたという故事から生まれた言葉。「韋」は、本を綴じた革ひものことで、「韋編」は書物のとじひもをいい、さらに本や書物をいう。

 韋編三絶(いへんさんぜつ)ともいう。

いほ 〔以貌取人〕
 (いぼうしゅじん)

 容貌を見て人物の優劣を決める。

いわ 〔鰯の頭も信心から〕
 (いわしのあたまもしんじんから)

 鰯の頭も信心からとは、他人から見ればつまらないものでも、信心する者にとっては尊く有難い存在となるというたとえ。

 鰯の頭のような物でも、神棚に祀り信心すれば、有り難いと思うようになることから生まれた言葉。

 何かを頑固に信じきっている人をからかうときなどにも使われる。

〔言わぬが花〕
 ( いわぬがはな)

 言わぬが花とは、物事はあからさまに話してしまえば、興醒めしてしまうから、黙っている方がかえって趣があったりして、値打ちがあるものだというたとえ。

いん 〔殷鑑遠からず〕
 (いんかんとおからず)

 殷鑑遠からずとは、戒めとなるお手本は、古いものや遠くのものを捜すまでもなく、ごく身近にあるということのたとえ。

 また、身近にある他者の失敗例を、自分の戒めにせよということ。